2024年秋、岸田文雄首相が退陣し、日本の政治は新たな局面に入った。しかし、誰がトップに立とうとも、日本が直面する構造問題の深刻さは変わらない。財政の持続可能性、社会保障制度の維持、そして産業競争力の回復 — この3つの構造問題は、次期政権のみならず、今後数十年にわたって日本の命運を左右する課題だ。本稿では、政治的中立の立場から、これらの構造問題を経済学の視点で分析する。
構造問題1:財政の持続可能性 — 「借金大国」の行方
数字で見る日本の財政状況
日本の国と地方を合わせた長期債務残高は、2025年度末時点で約1,300兆円に達する見通しだ。GDP比で見ると約250%であり、先進国中で突出して高い水準にある。
- 日本:GDP比 約250%
- イタリア:約140%
- 米国:約125%
- ドイツ:約65%
毎年の予算編成を見ても、歳入に占める国債の割合(公債依存度)は約30%と、収入の3割を借金に頼っている状態だ。一般家庭に例えれば、月収30万円のうち9万円を借金でまかなっているようなものである。
なぜ日本は財政破綻しないのか
これほどの債務を抱えながらも、日本が財政危機に陥っていない理由はいくつかある。
- 国債の国内消化:日本国債の約90%は国内の機関投資家(日銀、銀行、保険会社)が保有
- 経常収支の黒字:海外からの所得収入(第一次所得収支)が大きく、対外純資産は世界最大
- 日銀の大量保有:日銀が発行済み国債の約50%を保有し、事実上の金利抑制機能を果たしてきた
- 自国通貨建て債務:円建てのため、理論上はデフォルトのリスクは低い
しかし、これらの「安全弁」は永遠に機能するわけではない。日銀の金融正常化(金利引き上げ)は、国債の利払い費を急増させる。政策金利が1%上昇するだけで、利払い費は年間数兆円増加すると試算されている。
財政再建の選択肢
財政の持続可能性を確保するための選択肢は、基本的に以下の3つに集約される。
- 増税:消費税率の引き上げ、所得税・法人税の見直し
- 歳出削減:社会保障費の抑制、行政のスリム化
- 経済成長:名目GDP成長率を高め、税収の自然増を図る
現実的には、これら3つの組み合わせが必要だが、いずれも政治的には極めて困難だ。増税は選挙で不利、歳出削減は既得権益との衝突、経済成長は「言うは易し」の世界。この政治的困難さが、財政問題を先送りにし続けてきた根本原因である。
構造問題2:社会保障制度の維持 — 「2040年問題」
人口構造の激変
日本の社会保障制度は、「多くの現役世代が少数の高齢者を支える」という前提で設計されてきた。しかし、少子高齢化の進行により、この前提は完全に崩壊しつつある。
- 1960年代:現役世代(15〜64歳)9.1人で高齢者(65歳以上)1人を支える
- 2025年:現役世代1.9人で高齢者1人を支える
- 2040年(推計):現役世代1.5人で高齢者1人を支える
2040年頃には、団塊ジュニア世代が65歳以上となり、高齢者人口がピークに達する。この「2040年問題」は、日本の社会保障制度に対する最大のストレステストとなる。
年金制度の課題
公的年金制度は「賦課方式」であり、現役世代が納めた保険料がそのまま現在の年金受給者に支給される。少子高齢化が進めば、論理的には以下のいずれか(または組み合わせ)しか選択肢はない。
- 保険料の引き上げ:現役世代の負担増
- 給付額の引き下げ:高齢者の所得減少
- 支給開始年齢の引き上げ:70歳、75歳への段階的引き上げ
- 税財源の投入拡大:消費税等による補填
マクロ経済スライドは「自動調整装置」として機能しているが、その調整ペースは人口変動のスピードに追いついていないのが現状だ。
医療・介護の持続可能性
社会保障費の中で最も急速に増大しているのが医療費だ。2025年度の国民医療費は約50兆円に達し、今後も高齢化に伴い増加が続く。介護費用も同様で、2040年には現在の約2倍の25兆円規模に膨張すると推計されている。
医療費抑制のための方策としては、予防医療の推進、後発医薬品(ジェネリック)の利用促進、オンライン診療の活用、そして「かかりつけ医」制度の強化などが議論されているが、いずれも効果の発現には時間がかかる。
構造問題3:産業競争力の回復 — 「失われた成長力」
日本の産業競争力はなぜ低下したのか
かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称された日本の産業競争力は、過去30年間で大きく低下した。IMDの世界競争力ランキングで、日本は1989年の1位から2025年には38位まで後退している。
競争力低下の要因は複合的だが、主なものを挙げると以下の通りだ。
- デジタル化の遅れ:DX(デジタルトランスフォーメーション)において、日本企業は米中企業に大きく後れを取った
- 労働生産性の低迷:OECD加盟38カ国中28位(2024年)という低水準
- スタートアップエコシステムの未成熟:ユニコーン企業の数は米中に遠く及ばない
- 人材投資の不足:企業の人的投資(教育訓練費)はGDP比で先進国最低水準
- 新陳代謝の停滞:ゾンビ企業(低金利で延命されている非効率な企業)の温存
半導体戦略 — 「国策」の成否
日本政府はTSMC熊本工場の誘致やRapidusプロジェクトなど、半導体産業の復興に巨額の補助金を投入している。2025年度までの半導体関連予算は約4兆円に達する。
この「半導体国策」の成否は、日本の産業競争力の将来を左右する重要な試金石だ。しかし、過去の産業政策の教訓(エルピーダメモリの破綻、ジャパンディスプレイの経営難など)を踏まえれば、政府主導の産業政策には常にリスクが伴うことを忘れてはならない。
GX(グリーントランスフォーメーション)の可能性
脱炭素への移行は、日本にとって脅威であると同時にチャンスでもある。水素技術、蓄電池、次世代太陽電池(ペロブスカイト)など、日本が技術的優位性を持つ分野は少なくない。GXを産業競争力の回復につなげられるかどうかが、今後の重要な論点だ。
政治に何ができるのか — 構造改革のための条件
短期的な人気と長期的な政策のジレンマ
民主主義国家における最大の課題は、選挙サイクル(短期)と構造改革(長期)のタイムスパンのミスマッチだ。増税、社会保障の見直し、産業の新陳代謝の促進 — いずれも短期的には痛みを伴い、票を失うリスクがある。
必要なのは「グランドデザイン」
個別の政策を議論する前に、日本がどのような国を目指すのかという「グランドデザイン」が必要だ。高福祉・高負担の北欧モデルか、低負担・自己責任のアメリカモデルか、あるいは日本独自の第三の道か。この根本的な議論なしに、個別の政策を積み上げても、全体としての整合性は取れない。
結論:有権者としての責任
財政、社会保障、産業競争力 — これらの構造問題に「魔法の解決策」は存在しない。あるのは、トレードオフ(何かを得るために何かを犠牲にする選択)の連続だ。増税なしに社会保障を維持することは数学的に困難であり、痛みなしに産業の新陳代謝を促すこともできない。
政治家にこれらの構造改革を実行させるためには、有権者側にも「痛みを引き受ける覚悟」と「長期的視点で判断する知性」が求められる。経済を学ぶことは、単に投資で儲けるためだけではない。民主主義社会の一員として、より良い意思決定に参画するための基盤なのだ。


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